宙の空想食堂

映画や絵本などの物語に出てくるお料理や雑記

箸休めに物語を。

 

いらっしゃいませ。

宙の空想食堂へようこそ。

 

こんにちは。宙と申します。ここは映画や絵本などの物語に出てくるお料理や、をトッピングしたお料理が出てくる食堂です。たまに店主のひとりごとが聞こえてくるかもしれません。どうぞくつろいでゆっくりしていってくださいね。

 

本日は箸休めに短編小説はいかがでしょう。

不躾かと思いますが、感想等いただけましたらとてもとても嬉しいです。

 

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『仕事を終えたあとは』

 

 

 吉村とはカフェで知り合った。浅草にあるそこのカフェにはひとり、器量が良い上に文学的教養のある珍しい女給がいて、彼女目当てにいろんな作家や芸術家が出入りした。

 思えば好奇心の旺盛なその女給が客たちと交流しているうちにその教養を身につけたのだと考えれば彼女の存在は不思議ではなかったのかもしれないが、その珍しさはたちまちカフェの顔になった。私はただ帰宅の便がよいからという理由でそこのカフェに通っていたが、吉村は、その珍しい女給を眺めるでも話しかけるでものなく、ただひとりでぼんやりとしている私が気になったらしかった。どう話しかけられたかはいまひとつ覚えていないが何となしに馬が合い、休日には一緒に活動写真や芝居を観にいったりするようにもなった。

 

 吉村と一緒に過ごすと笑いが絶えなかった。文学や芸能といった種の娯楽に造詣の深い吉村は、酒や女の話ばかりする同僚と話題が合わないらしく、私に会うと週末に読んだ円本や活動写真などの感想を喜々としてひたすら話し続けた。吉村ほどの詳しくはなかったが、私もそういった娯楽は好きであったので、私が吉村の話に一応ではあるが、ついていけることに吉村は喜んだらしかった。そのうち段々と私も吉村のようにその類の娯楽に投資をするようになっていった。

 

 吉村は笑うと目元が崩れた。よく笑う吉村の穏やかな雰囲気は彼が所帯持ちであることを匂わせたし、事実彼は細君の話をよくした。だから初めからこれが、叶わぬ恋であることは解っていた。思慕を抱いてはいけないひとだと最初から解っていた。きっと私が心の強い人間だったならよかったのだろう。

 その日は、仕事終わりに吉村と洋食屋にオムライスを食べに行っていた。そこのオムライスはケチャップソースが美味しいと最近話題になっているお店だった。新しいものや話題のものに目がない吉村が行こうと誘い、軽い気持ちで名物のオムライスを頼んだが、これが驚くほど美味しかった。

 真っ赤なチキンライスをぺろりと巻いた薄い卵。その黄色い丘に並々とかけられたケチャップソースには、煮込まれて型崩れしたトマトが爽やかな朱色のソースの中にごろごろと身を並べていて、そのトマトの食感とソースの絶妙な酸味は、なるほどこれは話題になると思わざるをえなかった。

 オムライスに舌鼓をうちながら流行りの円本の話を取り留めもなくしていると、急に吉村は目尻に皺を寄せ、口元をほころばせた。

「頻繁に一緒にいて、ここまで心地の良い友に会ったことはない」

目の前が真っ暗になり、私は闇に突き落とされた気がした。吉村の言葉は私にとってこの上なく嬉しい言葉だった。社交的な吉村は誰とでも親しげに話すことができるが、特定の親しい人を作ることは苦手であることをなんとなく感じていた私は、吉村にそっと心の扉を開いてもらったような、静かな喜びを感じた。

 しかし一方私は吉村に「友」と呼ばれたことに、傷ついている己の心に気が付いた。そして吉村に愛され、吉村の傍にいることを世間に認められている吉村の細君を羨ましく思った。そのときにこれはもう好きになってしまっていると自覚せざるを得なかった。彼に、理性で抑制できなかった友情以上の感情を抱いていた。

 

 吉村への気持ちを自覚するだけでも十分私にとっては苦しい決断であるのに、素知らぬ顔で吉村は追い打ちをかける。眉を下げてことある毎に「ああ良き友をもった」と私に微笑みかけるのだ。

 

 それまでの私は、愛というものに非常に冷淡になっていた。目に見えぬものを求め、すがり、探す者たちを腹の底で嗤っていた。例え愛が手に入ったとしても、それは永遠を確証するものではない。いつ、その愛が離れてしまうかわからない、他人の感情という不確実なものに心の拠り所を作ってしまうなど、恐ろしい阿呆に見えた。

 それはもしかすると以前の失恋の痛みによるものかもしれなかった。何度も互いの好意を確かめ合い、これこそが真実の恋愛ならびに愛、と大切に心のふところで抱え込んでいたのに、向こうは急に衣をひるがえしてさっさとお見合い結婚をし、私との縁を絶った。「恋人」ではなく、「家庭」や「子ども」というものが欲しくなったのだという。安心して心をさらけ出していた分、この失恋はとても痛かった。一度思いが届いた者がいつのまにか離れていったすっぽりとした淋しさだけではなかった。これから先もずっと一緒に過ごすひとだからと勝手に心を開いて、相手も同じように自己開示をしてくれていると思い込んでいた、その傲慢さとか、浅はかさとか、愚直さとか、もう何もかもが阿呆すぎて、辛かった。

 どれ程涙が頬を伝ったかはすでに覚えていない。ただ今にも引き裂かれそうな、鮮烈な痛みだけははっきりと思い出せる。そうして次は絶対に他人に心の拠り所をつくる朴訥な人間になるのはやめようと誓った。それなのに、だ。自分がまたその阿呆になることなどいつ想像できただろう。吉村の愛がほしいと戯けたことを思うようになるなど、いつ想像できただろう。あの日以降馬鹿にするようになった阿呆に近づいていくのが自分でもありありと感じることができた。それもすべて恋の谷に突き落とした吉村のせいだ。男同士の恋など許されるものではない。それなのに、理性で感情を制することができなくなったのも、すべてすべて、吉村のせいだ。

 

 

 

 

 

店主.宙